文芸創作誌「ウィッチンケア」Vol.10にて「カメラと眼」と題して
カメラ機器の発達と撮影者自身の「見ること」について
自身に起こったある出来事から考えてみました。
カメラと眼

2010年に写真家の道を進むと決めたとき、肝心のカメラさえ持っていなかった僕。
ネット通販サイトや、商品カタログを穴があくほど見つめても一体何を買えばいいのか見当もつかなかった僕が頼ったのが、ネットでたまたま見つけた奈良県でカメラサークルを主催するAさんというアマチュアカメラマンおじさんだった。
ウェブ上で公開されたAさんの作品が素晴らしかったのは言うまでもないのだが、何よりその優しそうなプロフ写真に惹かれて、僕は早速連絡を取ったのだった。
会うなり、全く見ず知らずの僕をAさんはプロフ写真の表情そのままに優しく迎え入れてくれて、「あの、僕写真を始めようと思っているんですけど、カメラって何を買ったらいいですか?」と言う素人丸出しの僕の質問に嫌な素振り一つ見せずに答えてくれた。
「そうやねえ、写真を始めたばかりの人でも扱いやすくて、お財布にも優しくて、ある程度の解像度もあるこのカメラがいいんじゃないかな」
そう言って見せてくれたのがNIKON D90というデジタルカメラだった。
それは2008年に発売されたアマチュアにぴったりの小型一眼レフカメラだった。
ちなみに今では動画機能が搭載されたカメラは当たり前だが、このD90が世界で一番最初に動画撮影を兼ね備えたカメラだった。
そんなこと当時の僕は露知らず、Aさんから勧められるままに購入し、撮り始めたのが写真家として初めてのカメラだった。
そうして使い始めたわけだが、使ってすぐに当然のことに気がついた。
それは、デジタルカメラは撮ったその場で画像が確認することができ、撮ったものに対する反省がすぐにできるということだった。だから写真の上達も早い。素人だった僕にとってそれは喜ばしいことであった。きっとフィルムカメラを使っていたら、撮って、現像して、写真を見るというタイムラグのせいで僕の写真へのモチベーションは随分低かっただろうなと思う。
僕自身の性格的なものかもしれないが、タイムラグがあることで消えていくその時の感情や記憶を失わずに、出来るだけ新鮮なまま画像としてすぐに見たいという欲求があるのだ。
フィルムとデジタルの時代の両方を知っている世代だけれども、デジタルカメラ時代全盛期に写真家になってよかったと心から思うし、僕自身の気持ちとしては完全にデジタル世代だなと思う。
(だからすぐに画像を見れるフィルムとしてのポラロイドやチェキは愛用カメラの一つである)
そうやってD90から始まった僕のデジタルカメラとの付き合いも約10年が経とうとしている。
今ではD90はとっくに役目を終えて僕は新しいカメラを相棒にして写真を撮っているわけだが、この10年という歳月でD90が兼ね備えていたスペックはあっという間に刷新され、今やミラーレス機やスマホカメラなどの軽量小型簡易化されたカメラが市場を席巻し、一眼レフカメラの地位も危ういものになっている。
たった10年で「素人カメラマンとプロカメラマン」の差はカメラ技術の猛烈な進歩によってグンと狭まったし、誰もがそれなりの写真を手軽に撮れる。多少のセンスがあればプロ顔負けの写真を撮れることなんて最早みんな知っている。
そうやって撮影へのハードルがどんどん低くなっていったことで、カメラは完全に民主化され、そのおかげで恐らく人類史上最も写真が撮られる時代になったと言っていいだろう。
街に出ればスマホ片手に写真を撮っている人間に出会わない方が難しいし、世界中どこに行ってもみんな本当によく写真を撮っている。
僕自身も仕事で使うカメラ以外で最も多く使用しているのはスマホだ。
そういえば今年1月に撮影で装丁家の矢萩多聞さんとインドへ行った時のこと。
インド第3の大都市バンガロールから国内線でアラビア海にほど近いマンガロールという街へ移動したのだが、ここで事件が起こった。
航空会社のスタッフが搭乗口で飛行機に乗り込む出発直前の僕たちを見つけると駆け寄ってきて、こう言った。
「あなたたちカメラのバッテリーを預け荷物の中に入れてたでしょ?あれは発火の恐れがあるから機内持ち込み荷物で持っていかなければならないのよ。だからあなたたちが預けた荷物は飛行機に積み込むことができないの。申し訳ないけど、あなたたちはそのまま出発して荷物はこちらで再検査して明日空港に送るわ」
では良い旅をと付け加えてさっさと去っていこうとするスタッフを慌てて追いかけて交渉したのだが、結局その決定は覆ることなく、僕たちは荷物を空港に置いたまま飛行機に乗せられて出発することになったのだった。
マンガロールに到着した僕たちは翌日送られてくるという荷物を受け取るために、その晩は空港近くに宿を取り、翌朝すぐに空港に向かうと、果たして荷物は無事に届けられていたのだった。
もしかしたら帰って来ないんじゃないかないかという危惧を抱いていただけに、一日ぶりの荷物との再会にああ、よかったとホッと一息ついたのも束の間。バッテリーを入れていたはずのポケットを探るも、見当たらないのである。あれ、違うところに入れてたのかなと思って荷物をひっくり返すもやはりバッテリーは一つも見当たらない。探せども探せども出て来ない黒くて小さなあいつ。あいつがいなければ、僕の持ってきたデジタルカメラやレンズはうんともすんとも動かないのである。あいつに会いたい。あいつをこの手で握りしめたい。祈るような気持ちで探るのだが、やはりどこにもその姿を見つけることができなかった。
そう、バッテリーは見事に荷物検査の段階で引き抜かれた状態で帰ってきたのである。
完全に落ち度はこちらにあるものの、インドへ来てこれから撮影という段階で、撮影が出来ない状況に頭を抱えた。
写真家はカメラがなければ何も出来ないことを、今ここでこれほど痛切に感じることになるとは。カメラ、カメラ、何か写すことのできるもの。そんなことを考えてズボンのポケットの中に手を入れた時、ふと思った。そうだスマホで撮ろうと。
それは一見無謀な試みにも思えたが、僕は日々のメモ程度にスマホで写真を結構よく撮るし、撮りながらいつもスマホ写真のその写りの良さ、そして何より機動性の高さに実によく出来たカメラだなあと思っていたのである。
実際にスマホで作品を作っているプロの写真家も多く存在している。撮り方次第では十分作品として成立するポテンシャルを持ったスマホを上手に駆使すれば、今までとは違った写真を撮ることができるかもしれない。
そう考えると、急にこれまでとは全く違った視点と考え方が自分の中に備わってくるような感覚に包まれた。
フィルムカメラだろうが、デジタルカメラだろうが、スマホだろうが、どんな機材であろうと結局はそれを使って何をどう写し、対象をどう見つめたいのかという写真家自身の思考が最も大事なことであって、カメラはそのための道具でしかないのだ。
やむを得ぬ事情があって、スマホで写すことになりそうな今回の撮影も、僕自身の対象への眼差しにブレがなければ、スマホならではの見つめ方ができるはずだ。結局写真は写真でしかないのだと確信し、気持ちを新たにしていると、矢萩多聞さんがスマホに表示された地図を見せながらこう言った。
「吉田さん、マンガロールに一軒だけカメラ屋があるみたいで、ここに電話すればもしかしたらバッテリーあるかもしれない!」
すると、すぐに電話をかけてくれた多聞さん。すると何と一個だけ在庫があるという。
結局、そのカメラ屋でバッテリーを手に入れ、その後無事に愛機で撮影をできることになり一件落着だったのだが、スマホで撮ろうと思ったあの時の気持ちは、カメラ技術がどれだけ発展し続けようとも、写真家自身が道具と上手に向き合いながら、自分の目の前に広がる世界に対して、写真を通して愚直に対話し続けるその行為は変わってはならないという、僕たちの仕事の原点のようなものに気づかせてくれた大切な思い出として今も残り続けている。

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